コミュニケーション

『信頼関係』という見えないものこそ、僕らは大切にしないといけない

"信頼関係" は、見えないがために取扱い注意の代物だ。

信頼関係の重要性について理解している人は、まず自分の立ち位置を把握すべく周りから情報を掻き集め、相手に何を求められているかを把握した上で期待以上の結果を出そうとする。

一方、信頼関係についてそもそも意識していない人は、自分中心の行動となりがちだ。

 

"信頼関係" を改めて意識したできごと

最初から人を疑うような感じで見る人は少ないと思う。

だから、多少ミスをしても、その人が一生懸命やっている姿を見せているなら、大抵の人は悪く見ないだろう。しかし、それが余りにも続いて改善する意思も見せない甘えがあるようなら、皆キレるはずだ。そんな話をこれからしようと思う。

私の周りにある男がいた。

彼は、会議中にある議題に対して的確に意見したり、何より特定分野における知識が深かったゆえに、一目置かれる存在だった。

しかし、である。

彼は実行に移すことができない人物だった。

当初はスキルの高さから、彼が抱えていたある案件が一向に実行に移されないことに対して、『業務が多忙なんだろう』ということで目をつぶられていたのだが、それが2回、3回と続くと雲行きが怪しくなってきた。そして、決定的だったのだが、上司からの指示を報連相することなく放置していたことだ。

大抵の仕事は一人で完結しないわけだが、今回の仕事も多分に漏れず一人で完結する仕事ではなかった。よって、一人が仕事を放置しようものならチームに影響すること必至で、チーム内の人達は進捗共有を当たり前のように行っていた。

そのような中で、彼は重要案件を放置したものだから、重要な案件を彼に任せられないという認識が一気に広まってしまったのだ。

電光石火のごとく本当に一瞬だった。これまで仕事の負荷の都合で仕方なかったといったという雰囲気が、単なる怠惰だったという雰囲気にガラリと変わり、周囲の許容という名のダムに一気に不満という名の水が押し寄せ決壊してしまった感じだ。

彼は1年以上コツコツと積み上げてきた信頼関係というものを一瞬で崩してしまった。

一度付いてしまった負の印象を直ぐには取り去るのは難しく、何より残念なのは、彼が持っているスキル自体も疑いの目で見られてしまっているという点だ。

 

大事なのに学ぶ機会がほとんどない "信頼" というパラメータ

もし、信頼というパラメータが数値化されており、2回、3回とやっちまっている時に、彼の信頼パラメータが下がってきている様子を本人が自覚できたなら、彼は行動を変えられたかもしれない。

しかし、各個人の信頼を測定できる機械はない。

なぜなら、"信頼" は数値化が最も難しい部類のものだからだ。

人によって信頼関係の尺度は違うし、性格によって懐の深さも違うから、みんなが同じ判定には決してならないからだ。

そういう意味では、学生時代はわかりやすい。

例えば、国語、数学、理科、社会、英語など、求められるスキルにおいて頻繁にテストが行われ、何が不足しているか数値で客観的にわかるからである。そして、それを基に意識が高い子は勉強するし、先生や親から何をすべきかの指導を受けることもできる。

つまり、意識して改善に繋げられるのだ。

もちろん、ここに "信頼関係" というテストはない。コミュニケーションの基盤となる非常に重要な項目なのに、である。

もちろん、大人になってもそんなテストはない。唯一近いものがあるとすれば、高校の倫理かもしれないが、信頼関係というものをピックアップして積極的に教えているという感じでもない。

でも、こうなるのも仕方ないのかもしれない。なぜなら、先程も言った通り、"信頼" を測定する確実な手段がないからだ。

人は測定できない、つまり数値化できないものに対してはあまり意識が向かないわけで、当然、意識すらしていないことを改善しようにない。数値化できない曖昧なものは、伝統文化のように意識して残していかないと切り捨てられていく運命にあるものが多い。

実際、"信頼関係" というものを直接学ぶ機会は両親、祖父母、そして僅かながらの実体験といったぐらいしかないのではないだろうか?

そして、どこかの会社が不祥事を起こして、メディアのコメンテーターが「やはり、信頼関係が大事ですね」と発した言葉を聞くぐらいじゃないだろうか?

決して目に見えない信頼関係、学ぶ機会がほとんどない信頼関係、こんな信頼関係だからこそ、僕らは大切にしないといけない。

じゃないと、息苦しい社会になってしまうのかもしれない。

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